阪神淡路大震災

16年前は関西在住の独身OLでした。

夜明け前、ベットの下から突き上げ、カラダを左右に振られる衝撃で目を覚ましました。
揺れがおさまりまわりを見たら、枕元にテレビが落下 ピアノが部屋の端から端まで移動してて 急いで階下に降りると 階段が無く1階で尻餅。
塗り壁がすべてはがれ落ちてたのがさいわいで ケガはありませんでした。

母はすでに調理中。二方向から倒れた食器棚を支えるテーブルの下から出てきました。
母、すでに化粧している。早っ!

テレビをつけ 何事かわからないまま 余震におびえる時間。

母はすぐに目一杯のごはんを炊き始めてました。その後停電。

家は傾き、玄関は崩壊。
外に出るとあちこちで火事やガスくさいにおい。
車止めを乗り越え壁に激突していた車。

公衆電話には長蛇の列。

親戚は近所に密集しているので来てくれたり、
すでに嫁に行っている友達んちの安否をを確かめ 一階が崩壊している家の前で助けを呼んだり、
警察に頼んでも 順番ですから のひと言。

それはそれはすさまじい朝でした。

一晩は避難所へ。でも飼い犬が心配で車で一晩。
家を借りることができて、ほっと一息。でも断水は続く。トイレが不便。
水って大事です。

あたたかいものが食べたい。電気は来てるものの断水。食器も割れてたり、洗えないからラップをかぶせて使ったり、
何もかもが空回り。
おにぎりは1個千円で売ってる始末。


3日目には仕事がたまり始めてたらしく、いつまで休むの?みたいな。

当分の着替えを持って会社の寮に入れてもらうことに。
電車に乗って、いざ出社。
大阪に入ったら普通の生活。ビックリでした。髪ボサボサのきちゃない格好の人なんていないのです。

仕事場まで会いに来てくれた友達と泣きながらの再会。

大阪の生活は不安だらけでしたけど快適で 親戚ンちに残してきた母には申し訳なかったです。




今、あの日がもう一度来てしまったら 私は子どもたちを守り抜くことができるか不安になります。

非常時に備えた生活 もう一度点検してみます。